夜の帳が深く降りる。 闇はただ暗いだけではなく、その底で何かが目を覚まそうとしていた。 空気の底を這う意志を持った冷たさ── 地面の奥に潜んでいた気配が、じわじわと輪郭を帯びていく。 土がわずかに盛り上がり、冷気がそこから漏れ出す。周囲の霧が何かに引き寄せられるように渦を巻いた。 中心には、黒い裂け目のような影── エレナは指先に意識を集中させた。 矢の先に込めたのは、勝ちたいという欲ではなく、守るという意志だ。 背後から、リノアの微かな喘ぎが聞こえる。その呼吸は浅く、途切れがちで、まるで夢の中で何者かに囚われているようだった。 足元を這う冷気が空気の緩みを奪い、場を静かに凍らせていく。 エレナは一歩、足を前に踏み出した。 守るべきものは、すでに決まっている。 その瞬間が、ついに訪れた。 沈黙が限界を越え、闇が牙を剥く。 そこから現れたのは黒く染まった羽根── 一枚、また一枚と地面から舞い上がるように浮かび上がっていく。 それはしばらくエレナの周囲を旋回し続けた後、やがて目的を定めたかのように、ゆっくりとリノアの方へ降下していった。 エレナは目の前の光景に釘付けになり、矢を引き絞ったまま、動くことができなかった。 リノアの胸元に舞い降りる一枚の羽根──それは敵の術が生み出したものだ。 物理的な実体を持たず、精神の深淵から創り出した幻。射抜くことなど、できるはずがない。 その羽根がリノアの胸に触れた瞬間、リノアの荒々しい喘ぎがふっと途絶えた。 静寂が辺りを包み込む。 リノアが内なる何かを拒むように身体をうねらせている。 それは寒さでも、夢の残響でもない。内側へ侵入しようとする“何か”を拒む、無意識の抵抗。 抵抗も虚しく、水面に溶ける光のような柔らかさで、羽根がリノアの胸元へと沈んでいく。 リノアの背が弓なりに反り、そして再び喉から微かな喘ぎが漏れた。声にならない言葉が吐息と共に夜の冷気に漂う。 それは祈りか、呪いか、それとも届かぬ願いか──エレナには分からなかった。 矢を放ったところで羽には届かない。 ならば、私ができることはただ一つ、リノアの名を呼ぶことだ。その声がリノアをこの見えない鎖から解き放つ鍵になるかもしれない。「リノア」 エレナは囁くように、その名を呼んだ。 張り詰めた空気に、その声が染み込む
焚火の炎が緩やかに揺れる。 空気はまだ冷たく、凍結の晶核の余波が地面に残っていた。 黒い霧のような残骸が地面に広がり、中心には砕けた仮面の破片がひとつ。それは、命令を下していた“闇の存在”の抜け殻── 本体の気配はまだ消えていない。 攻撃を仕掛けた後、暗闇へと身を潜めたままだ。こちらの出方を伺っているのだろう。 リュカは剣を構え、闇の中を見据えている。 気配は、確かにそこにある。 だが、姿は見えない。 音もなく、ただ、焚火の炎が逆巻くように揺れているだけ。 静まり返る中、エレナはリュカの背中を見つめていた。 リュカの肩が浅い呼吸に合わせて上下している。その動きは、焚火の揺らぎよりも速く、どこか落ち着かないものだった。 剣を握る手にも過度な力が込められている。 リュカが今、何を思い、何を押し殺しているのか──それを知る術はない。だが、リュカの背に漂う空気が言葉にならない葛藤を物語っている。──これは、リュカ自身の戦い。 リュカは自分の運命に抗い、前に進もうとしている。平常心でいられるほうがどうかしている。 運命に抗う者の歩みは、いつだって痛みを孕んでいるものだ。 エレナが思案に耽っている時、闇の奥から、低い唸りのような気配が広がった。 空気が震え、地面の霧が巻き上がる。 砕けた仮面の破片が風に押されて転がっていく。「油断しないで。エレナも狙われてる」 リュカは闇の奥を見据えたまま、微動だにしない。その姿は少女であることを忘れさせるほどに、凛として揺るぎのないものだった。 戦いに於いては、リュカの方が場数を踏んでいるのかもしれない。 エレナは頷くと、矢を番えたまま一歩後退した。 月光が枝の隙間から差し込み、指先に触れた冷気が微かな震えを呼び起こす。 霧が不自然に揺れている。 これは風のせいではない── 地面の下で蠢く何かが、そうさせているのだ。 敵の術か、それとも先ほど倒した敵の残滓か。 刺激すれば今にも飛び出して来そうだ。 焚火の炎が刃とリュカの瞳に揺れる光を宿している。「来る」 リュカの声が空気を裂いた瞬間、霧の奥から何かが跳ねた。滑るように黒い影が沈黙を破って飛び出す。 リュカが剣を振るい、刃が空を切る音と闇の叫びが重なった。 火花が散り、霧が裂ける。「二体?!」 エレナが思わず声を上げる。
エリオは深く息を吸い込み、便箋の端を持ち直すと、ゆっくりと折り目をほどいていった。 カデルらしい筆跡だ。鋭く、どこか癖のある線。伝えたい情報だけが端的に記されてある。「リノアとエレナという人物がフェルミナ・アークに向かっているらしい」 読み進めるにつれ、エリオの表情が徐々に変わっていく。「ノクティス家……」 その名に至ったとき、エリオは一度手紙から目を離した。 遠くを見るように視線を泳がせ、何かを探すように空を仰ぎ見る。「エリオ、どうしたの?」 ナディアが問う。「そのリノアという人が、どうやらノクティス家の血を引いているようなんだ……」 どうして、そのような人間がフェルミナ・アークに行く必要があるのだろうか。深刻な理由でもあるとでもいうのか。 エリオは再び便箋に目を戻し、残りの文を読み進めていった。 その瞳には、かつて戦場で情報を読み解いていた者の鋭さが見て取れる。「ノクティス家って何?」 ナディアが首を傾げる。「ゾディア・ノヴァにとっては、脅威になり得る存在。だけど見方を変えれば、利用価値の高い血筋とも言える。この名家の者には代々受け継がれる特殊な力があるからね。それは戦術にも、政治にも、信仰にも影響を及ぼすほどのものなんだ。その血筋の者が動き始めたということは、ただ事ではないってことは確かだ」 ナディアが息を呑む。 エリオは少しだけ間を置いてから、さらに続けた。「ノクティス家の者だけじゃない。クローヴ村のクラウディアとグリモア村のグレタも動いている。均衡が崩れ始めているようだ。平穏はもう、形だけのものと言って良い」 風が苗の葉をそっと揺らし、遠くで鳥がひと声だけ鳴いた。空気が何かを告げようとしている。「また戦いが始まるってこと?」 ナディアが心配そうにエリオを見つめた。「分からない。何が起きているのか、何を目的に彼らが動いているのか、この手紙だけでは……」「また私たち、どこか遠くへ逃げなきゃならないのね」 ナディアがエリオを見つめ、そして続けた。「一体いつまで、こんな生活を続けなければ……」 そう言って、ナディアは目を伏せた。 雲がゆっくりと流れ、井戸の水面がわずかに波打つ。 エリオは読み終えると、便箋を丁寧に折り直し、ナディアの方へ向き直った。「確かに、いつまでもこんな生活はできないよな」 エリオ
陽が傾き始めた頃、ナディアは畑の端で土をならしていた。 手には鍬、足元には根を張り始めた若い苗。風が吹くたびに葉が揺れ、土の匂いが空気に溶けていく。 そのとき、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。 乾いたリズムが畑の静けさを切り裂くように近づいてくる。 ナディアが顔を上げると、荷馬車がゆっくりと柵の前で止まった。 手綱を引いていたのは、見慣れた配達人。「ナディアさん。情報屋カデルからの手紙です」 ナディアは鍬を地面に立てかけて、手を拭いながら配達人に歩み寄った。「ありがとう。助かります」 配達人は帽子のつばに指を添えて軽く会釈すると、手綱を引いて馬車を静かに回し、土煙を残して畑の先へと消えていった。 封書には見覚えのある印が刻まれている。「カデル……一体、どうしたのかしら」 思わず声が出る。 何かあったのだろうか。そう思いながら、ナディアは畑を後にし、薪を割るエリオの元に向かった。 斧が木を裂く音が、一定の間隔で空気を叩く。斧の振るい方には、かつて剣を握っていた者の癖が残っている。 だが、その肩は以前と比べると僅かながらに凹んでいた。平穏な暮らしの積み重ねが、動きの鋭さを少しずつ鈍らせたのだ。「エリオ」 ナディアが声をかける。「カデルから、手紙が届いたわ」 エリオは斧を地面に置き、手を拭いながらナディアに近づく。 ナディアが封書を差し出すと、エリオはそれを受け取り、しばらく無言で見つめた。「カデルが、俺に?」 思いがけない名を聞き、エリオが戸惑いを見せる。 封を切る前から、軽い話ではないことを悟っているかのようだった。 紙越しに伝わる重さは、言葉のそれではなく、過去の気配── ナディアは声を発さず、ただエリオの動きを見守った。 風が二人の間をすり抜け、木々のざわめきが遠くでささやく。 エリオは決心した顔つきで、ゆっくりと封を切った。 中から現れたのは、折り目のついた一枚の便箋。 その筆跡を目にした瞬間、エリオの表情がわずかに揺れた。「カデルの字だ。嫌な予感がするな」 情報屋カデル──かつて命を託すしかなかった相手。信頼とは違う、だが、背を預けた時間は確かにあった。当時の二人には、それしか選択肢がなかったからだ。 過去の記憶が、便箋のインクの匂いと共に蘇る。「何て書いてるの?」 ナディアがエリオに一歩近づ
村人たちの喧騒をよそに、クラウディアは自宅へと向かった。 扉を閉める音が、外のざわめきからクラウディアを切り離す。 日が暮れかかり、家の中は薄暗い。クラウディアは窓辺に置かれたランタンに火を灯すと、懐に入れていた、もう一通の手紙を取り出した。 イオから手紙が来るとは珍しい。 イオはフェルミナ・アークの研究者として知られる人物だ。きっと何かあるに違いない。 封を切る手が自ずと慎重になる。 急いで書いたのか、感情が高ぶっているのか、イオの筆跡は、いつも通り整ってはいても、どことなく足早な印象が感じられた。 文の流れが妙に早く、文面に、いつもの余白がない。何かに追い立てられているような調子だ。グレタがエクレシアへ向かおうとしている。何を話したか不明だが、グレタとゾディア・ノヴァの接触があった。そしてゾディア・ノヴァの元兵士であるエリオ。この人物は現在、フェルミナ・アークを離れ、今は郊外で生活している。彼にも手紙を送っておいた。じきアークセリアに来るだろう、合流した後は私の娘であるセラ、クローヴ村のアリシアとヴィクター、エリオ、その恋人ナディア。彼らと共にエクレシアへ向かう予定だ。恐らくゾディア・ノヴァは勢力を拡大しようと目論んでいる。何としてでも阻止すべきだ。リノアとエレナがフェルミナ・アークに乗り込んでいる。今こそ叩くべき時──イオ・マルヴェルより クラウディアは目を細め、文面を何度も読み返した。 ゾディア・ノヴァ──その言葉が、かつての戦火の記憶を呼び起こす。 クラウディアは手紙を膝の上に置き、しばらく動かなかった。 外では風が戸を揺らしている。 その音が遠くの戦の足音のように聞こえた。──リノアとエレナがフェルミナ・アークに足を踏み入れた……か。やはり、あの二人は何かに導かれている。 驚くべきなのは、アリシアとヴィクターの動向だ。 戦う術を持たないはずのアリシアとヴィクターが、危険を承知の上で禁足地へ向かおうとしている…… 驚きと共にクラウディアの胸にひとつの問いが浮かんだ。なぜ、彼らは行かねばならないのか。 リノアとエレナだけに背負わせたくはない。その想いがあるのは分かる。そして、それぞれが何を背負い、何を失ったか。それもよく分かっているつもりだ。 しかし、それだけでは説明がつかない。──何かが彼らを引き寄せ
クラウディアはイオからの手紙を懐に入れると、エルディア家からの封書を、その場で封を切った。 村人たちがその様子を見守る。 手紙には、グリモア村のグレタとゾディア・ノヴァの動向に関することが記述されてあった。──グレタは各国の名家の元を訪ね歩いていたのか。「ゾディア・ノヴァが再び動き出している。各地の国々に密かに使者を送り込み、協力を仰いでいるらしい」 グレタの言葉は簡潔だったが、そこには強い警告が込められていた。 その使者は、協力の見返りとして領土の分配を約束したという。 ゾディア・ノヴァとしては魅力的な条件を提示したつもりなのだろう。浅はかな考えだ。 クラウディアは手紙を読み終えると、そっと目を閉じた。 ゾディア・ノヴァ──その名が再び動き出したと聞いても、驚きはしない。 クラウディアは、かつてその前身となるセリカ=ノクトゥムに仕えていたことがあった。あの頃から、彼らの思想は変わっていない。 言葉巧みに理想を語り、協力を求めるふりをして、裏では領土と権力の掌握を企てる。その手口は洗練されているが、根底にある思想は古びたままだ。「相変わらず。狂っている……」 クラウディアが呟く。 領土の分配── それは、かつて何度も繰り返し聞かされた悪しき言葉だ。それは誰かの犠牲の上に築かれる秩序であり、誰かの沈黙を前提とした繁栄だ。 今はどこの国も平穏を取り戻しており、領土を拡大したいなどという時代錯誤な考え方をする名家は存在しない。その静けさを乱すような提案を、名家が本気で受け入れるはずがない。得るものより、失うものの方が遥かに多いのだ。 仮に動く国がいたとしても、一つか二つだろう。しかし、その一歩が大きな崩れを生む。 クラウディアは足を止めて、遠くの丘の上を見据えた。風が髪を揺らし、乾いた草がざわめく。 空は澄んでいる。しかし、その静けさがかえって不気味だった。 境界の向こうから亡霊のように、ゾディア・ノヴァの影が忍び寄っている。 楽観視するわけにはいかない。 クラウディアの視線は、かつて仕えていた国の方角を無意識に探していた。 あの地から放たれる使者の足音は影のように忍び寄り、しかし確実に世界を揺るがす。 かつて多くの者があの者たちに翻弄され、そして沈んでいった。その記憶は風景の中に埋もれても、クラウディアの中では決して色